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吉本新聞ミニコミでは大河ドラマ『麒麟がくる』をきっかけに土岐氏から斎藤道三までの流れを見てきています。現在は道三の代になってから国盗りまでの原稿を書いています。
それに伴い実際に城跡やゆかりの場所を巡っていますので、これを歴史とともにまとめてみたいと思います。
今回は道三父、道三が居住したと思われる、軽海西城⇒祐向山城⇒稲葉山城⇒鷺山城⇒北野城(大桑城説有)⇒長良川の戦いで亡くなった道三を祀る道三塚と道三が2度に攻めた大桑城についてみてみます。(国盗り後の記事は後日加筆します)
道三の国盗りは道三と道三父の二代によるものであると言われています。
この頃、美濃は守護土岐氏の家督争いで国が乱れており、その間隙を突いて道三父と道三による下剋上は実現したと言えます。
また守護を補佐する守護代斎藤氏も家督争いで勢力を弱め、小守護代長井氏が権力を強めていました。
道三父は長井氏の家臣として実力を付けて行きます。(時期については不明)
2人の父、政房は家督争い(船田合戦)の末に第9代守護となりましたが、嫡男頼武を差し置いて次男頼芸を守護にしようとします。
頼武には守護代斎藤氏、頼芸には小守護代長井氏が付き再び美濃国は乱れます。
1517年(永正14) | 頼武勝利 |
1525年(大永5) | 頼芸勝利 |
1530年(享禄3) | 頼武越前へ逃れる |
1532年(天文元) | 頼芸実質的に守護 |
1533年(天文2) | 道三家督を継ぐ |
1535年(天文4) | 頼純(頼武嫡男か頼武本人説有)×頼芸 |
1536年頃(天文5) | 頼芸正式に11代守護を名乗る? |
1543年(天文12) | 道三×頼純(大桑城で合戦)翌年頼純越前へ |
1546(天文15) | 道三と頼純和議 頼純12代守護となる |
1547(天文16) | 頼純亡くなる |
頼芸2度目の守護となる(13代) | |
1552(天文21) | 道三、大桑城の頼芸を攻め落とす |
この間、落ち着いている時もあったようですが、美濃は越前、近江、尾張などを巻き込んで戦乱に次ぐ戦乱でした。
道三はこの中で時には形勢が不利になる場面も何度かあったようですが、頼芸を守護にのし上げました。
その後今度はその頼芸を攻め、自らが美濃国主となりました。
道三父が美濃で武士として力をつけ道三が国盗りをするまでの道筋を辿ってみたいと思います。
本巣市軽海
(道三父か道三)は頼芸の勝利に貢献し、長井氏家臣で断絶していた西村氏の名跡を継ぎ、ここ軽海西城に居城したと伝えられています。
1526年(諸説あり)、道三は頼芸から深芳野を貰い受け翌年に義龍が誕生しています。
※道三父は1533年没と考えられ、それ以前の事は父と道三が混同されて伝承されているようです。
※1526年6月文書に道三父が長井新左衛門尉として登場しており、長井氏の名跡を継いでいる事がわかります。
※東大寺が荘園のある美濃国に使者を下向させた折、有力者に贈り物を送っていますが、その記録によると主君の長井長弘よりも多く贈り物をされていることからこの時にはすでに相当の実力者となっていたと思われます。『斎藤氏四代より』
本巣市文殊
道三が頼武を急襲して戦功を挙げたため与えられたと伝わるお城ですが、はっきりしたことはわかりません。
😢文殊山から祐向山山頂目指しましたが途中で迷い到達できませんでした、再度チャレンジして写真を掲載したいと思います。
現岐阜城
斎藤氏の名を継ぎ稲葉山城へ
1539年頃から稲葉山城の大改築を行う
1548年頃、織田信秀の稲葉山城攻めを防ぐ
1552年、大桑城の頼芸を追放して、美濃国主となる
岐阜市鷺山
義龍に家督を譲り鷺山城へ隠居した。
現岐阜市東北野白髭神社
翌1556年の長良川の戦いまで居住したか、あるいは途中で城田寺へ移ったとも
山県市大桑古城山
1509年頃、頼芸兄の頼武が、福光館(現長良スポーツプラザ辺り)から大桑城へ拠点を移したのではないかと言われています。
これから土岐氏最後の守護となった頼芸が大桑城を攻められて追放されるまで土岐氏のお城(この間、戦乱で守護が何度も越前や尾張に逃れていますが)です。
大桑城からは越前へ道が通じており、敗戦の折は正妻の実家朝倉氏へ何度か逃れています。また頼純は幼少期、越前に避難していたらしく、頼純も越前へ逃れた事があります。
この時代の事はまだまだ解明されておらず、年代や事象においても様々な説がありますのでご了承ください。