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200年以上続いた室町幕府と美濃土岐氏ですが、その大半が様々な権力闘争の歴史で、幕府・土岐氏が衰退して戦国時代へと突入していきます。
室町幕府は3第将軍足利義満による南北朝統一後も、各地で乱・土一揆が頻発する動乱の時代でした。その中でも11年続いた応仁の乱は戦国時代へのきっかけとなり、幕府は滅びる事となりました。
8代将軍、義政と妻 日野富子に男子がなかったため、義政は弟義視を養子として後継者にしようとした。
ところがその後、義政と富子に実子義尚が生れた。このため、義視と義尚は将軍後継者争いとなり、その頃勢力争いをしていた細川勝元と山名宗全がそれぞれを支持した。
これに幕府側近家の家督争いや守護の権力争いなどが絡まり合い、内乱は11年続きました。
※応仁の乱については、『図解 応仁の乱』(小和田泰経著)などを参考にしてみてください。
1473年義政は将軍職を実子の義尚に譲り隠居。
義尚は9第将軍となります。その後も内乱は続きますが、1477年和睦が成立。
義視はこの後美濃へ亡命し、1489年まで滞在しました。
美濃土岐氏も3代守護頼康の時を最盛期として、4代守護の康行の乱(前回参照)により分裂、家督争いや守護争いなどでその権力は衰え、斎藤道三の国盗りによって美濃守護の座を追われました。
この頃、外様の国人である富島氏・斎藤氏を重用し、両氏の力が強まります。
※外様・・・代々仕えてきた家臣ではない者
※国人・・・地方に土着した武士
守護代の座を巡る争いで10年の戦いの末、斎藤氏の勝利
※守護代・・・守護は中央に居る事が多かったため、守護に代わり任地を直接治めた者
8代から12代はすべて家督争いにより守護の座についています。
これに守護代斎藤氏の家督争いなどが絡まり合い美濃国は乱れます。
その間隙を縫うように斎藤道三父、斎藤道三が台頭してきます。
ここで土岐氏守護の時代は終わりを迎えましたが、その支流が桔梗紋をかかげる明智光秀が、その後歴史の表舞台に登場する事となります。
次回は美濃国下剋上について見ていきます。