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今回は、伊能忠敬と日本地図についてです。
伊能忠敬は、初めて日本地図を実測で作った人です。では、江戸時代にどのように実測をしたのでしょうか?
忠敬が記した毎日の詳細な測量日記からその様子をみてみたいと思います。(紙版ミニコミ番号:第63号/H24.4発行)
伊能忠敬が作った日本地図は、当時の江戸幕府が国防上、隠さなければならない程、正確、詳細なものでした。
この正確さは、伊能忠敬測量隊による、1800年~1816年にわたる17年をかけて全国を歩いて測量する、という地道で膨大な労力の上に出来上がったものです。
17年間で歩いた距離、約4万㎞。
これはちょうど、地球をまる一周したことになります。この全国測量の旅は10回に分けて行われました。
第一次測量 | 1800年 | 180日間 |
第二次測量 | 1801年 | 230日間 |
第三次測量 | 1802年 | 132日間 |
第四次測量 | 1803年 | 219日間 |
第五次測量 | 1805~1806年 | 640日間 |
第六次測量 | 1808~1809年 | 377日間 |
第七次測量 | 1809~1811年 | 631日間 |
第八次測量 | 1811~1814年 | 913日間 |
第九次測量 | 1815~1816年 | 340日間 |
第十次測量1 | 1815年 | 17日間 |
第十次測量2 | 1816年 | 74日間 |
*第九次測量時、忠敬は70才を超え、周囲の説得で旅には同行しませんでした。
しかし第九次と同年に江戸測量(第十次)を行っており、そこには参加しました。
一回の測量ごとに、その部分の地図は幕府に提出されていましたが、測量を終えた時点では、まだ日本全図は完成していません。
17年にわたる測量後、そのデータをつなぎ合わせて地図を作る作業を行っている途中の1818年、73才で忠敬は地図の完成を見ることなく亡くなりました。
その後、高橋景保らによって、作業は続けられて、
1821年「大日本沿海実測全図」(又は大日本沿海輿地全図)完成しました。
図の赤い線は主な測量隊の道です。この他の内陸部や島(沖縄奄美を除く)までその測量は細部にわたり行われました。
北海道(蝦夷)の測量が全部できなかったため、弟子の間宮林蔵が測量をしました。「大日本海実測全図」北海道は、すべて間宮林蔵の測量を基にしたものではないかと言う説もあります。
忠敬の測量日記によると、
第四次で 起—大垣—関ヶ原
第七次で 加納—美江寺—赤坂
第八次で 海津—大垣—揖斐川—岐阜
を通過しています。
第七次の時、美江寺宿本陣、山本宇兵衛宅に宿泊しました。
次回、このあたりの測量の様子などについてみてきいます。
伊能忠敬測量隊 中山道をゆく②へ