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今回は瑞穂市居倉にある「伊久良河宮跡」についてです。
(紙版ミニコミ番号:第69・70号/H24.10・11発行)
居倉天神神社の境内奥に、一対の天照大神御船代石(1つは倭姫命御腰懸石とも言われる)
と祠が2つお祀りされています。
ここが、『皇太神宮儀式帳』『倭姫命世記』に記されている伊久良河宮の跡であると
推定され、現在、瑞穂市指定の史跡となっています。
伊久良河宮は倭姫命(ヤマトヒメノミコト)が天照大神の鎮座の地を求めた巡幸で4年間滞在された地とされている場所です。
第11代 垂仁天皇の皇女であり、日本武尊(ヤマトタケル)のおばにあたるといわれる人。
天皇の命により、天照大神が鎮座される地を求めて大和から伊賀・近江・美濃・尾張を巡られます。
伊勢に入られて、ここを天照大神の座地と定められたのが伊勢神宮のはじまりとされています。
『古事記』『日本書紀』によると、東国征伐の時、日本武尊に草なぎの剣を与えた人として登場しています。
2000年ほど前のこと,国ははやり病が蔓延し、民が苦しんでいました。
皇居に天照大神と倭大国魂神の二神をお祀りしてあるからではないかと考えた崇神天皇はその娘、豊鋤入姫に天照大神の鎮座される地を探してほしいと託した。
豊鋤入姫が天照大神の鎮座される場所を探して現在の奈良、京都、岡山などへ長年にわたり巡幸を続けておられましたが、
「私も年を取り疲れた、倭姫、あとを頼みますよ」
と言うことで倭姫に引き継がれました。
倭姫命は現在の奈良から三重、滋賀から美濃に入り尾張を経て最終、五十鈴川のほとりに鎮座の地を定められました。
上記の図にあるように伊勢神宮に鎮座されるまでにとどまられた場所●は元伊勢と呼ばれています。
『倭姫命世記』は鎌倉時代1280年前後に選集されたものと言われていますが、古事記や日本書記などをもとにしていると思われます。
この中では、美濃伊久良河宮に4年間とどまられたとあり、元伊勢のひとつです。
その居倉(伊久良)が古代信仰の祭事が行われていた重要な場所であったことが以下の事からうかがえます。
①お祀りされている「御船代石」とは、神の宿る石のこと。
②古代、日本では石に神が宿るとする「磐座(いわくら)信仰」があった。
③「座」「倉」は神のおわしますところの意を表すことがあり、居倉の近くには座倉という地名もある。
④天神神社境内からは古代祭事に使われたとされる神獣文鏡などの破片が発掘されている。
神(倉)が居ます所から居倉、また近くには豪族のお墓であった古墳などが多く散在しており、大和政権にとって大切な場所だったのではないかと推測できます。
4年滞在の後、神のお告げにより尾張中島宮へお移りになる様子が『倭姫命世記』に記され、生津や安八町宇波刀神社にはその伝説の足跡が残されています。
生津から船に乗ろうとされましたが、大雨のため数日生津にとどまられた。人々はそのことをありがたいこととして伊勢神宮より御分霊を奉斎し、豊受神社、神明神社を伊勢神宮並の神社とし現在まで伝統的な神事がとり行われています。
※生津には内宮、外宮、その近くには伊勢田など伊勢神宮に関係した地名がみられます。
その裏には伊久良河宮という文字が見えます。川を下ってこの神社に寄られたか、あるいはここを伊久良河宮とする説もあります。
また倭姫命世記に
尾張へ向かわれる時、美濃の国造(くにのみやつこ) 県主(あがたぬし)などが三隻の船、お供、田などを寄進したと記述されています。
※国造・・・古代、氏姓制度下の地方豪族、地方官
※県主・・・古代、大和王権の地方制度、県を支配した首長
以上、倭姫命世記を中心にこの地域をみてきました。このように、この地域が古くから開けていて、政治的にも重要な土地であったことがわかることの一つに条里制の地名が残っていることがあげられます。
次回は条里制からこの地域の古代の様子をみてみたいと思います。
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