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(紙版ミニコミ番号:第109号/H28.2発行)
『へうげもの』(ひょうげものと読む)とは
おどけたり、ひょうきんにふるまう風変わりな者の事を言います。
ひずみやひびのある茶碗を使用したり、斬新な茶の湯を作った織部はへうげものと評されました。
※山田芳裕の歴史漫画に古田織部を主人公とした作品「へうげもの」があります。
今回は利休に師事しながらも斬新な茶道のスタイルを確立した茶人としての古田織部を見てみます。
利休も織部も信長に仕えていましたが、その当時の二人の関係は不明です。
本能寺の変(1582年) で主人を失って二人が秀吉に仕える事となった頃から、利休と織部の師弟関係が始まったものと思われます。
1587年、北野大茶会で利休と共に活躍すると、その後も秀吉の茶会に出席して茶人としての名を上げるようになります。
1590年、小田原攻めの時、離れているお互いの消息を書簡で知らせ合ったり、この戦いの後、二人で熱海の湯に入りました。
1591年、利休が秀吉の怒りを買い堺への追放を受けた時、秀吉を恐れて誰も見送らない中、織部と細川忠興の二人だけが、淀の渡しで見送りました。
その後、秀吉から利休への切腹命令が出された折、織部は前田利家や細川忠興と利休の助命嘆願をしますが、かないませんでした。
豊臣秀吉に切腹を命じられた千利休が最後に開いた茶会では、自らが削った茶杓を用いました。茶会後、古田織部と細川忠興に一本ずつその茶杓が利休から渡されたそうです。
織部はその茶杓に泪と名付けます。織部はこの茶杓を収める長方形の筒をつくりますが、その筒に窓を開けていつでも茶杓が見えるようにしたと伝えられています。
利休亡き後、しばらくして織部が秀吉の下で茶頭を次ぎ、天下一の茶人となりました。
千利休からは、人のまねではなく、違ったことをしなさいと教えられ、秀吉からは武家の茶道に改革をしなさいと命じられます。
その通り、織部は自由で大胆、斬新な茶の湯を創造、織部風の茶器作製、茶室建築、庭園造りが大流行します。
今までの左右対称の美からゆがみ、ひずみ、割れにまで価値を見出し、これらは「ひょうげもの」「織部好み」などと評されました。
信長、秀吉、家康へと仕えた織部、次回は家康との関係、晩年を見ていきます。
家康と織部へ