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壬申の乱(672年)での大海人皇子勝利には美濃が大きく関わっていました。
(紙版ミニコミ:第71~73号 H24.12発行)
倭姫命巡幸の伝説 | ミニコミ№69.70参照 |
593 | 聖徳太子が摂政となる | 聖徳太子現存最古の木造建築法隆寺の建立など蘇我氏とともに仏教を広めた。 |
604 | 十七条憲法が定められる | |
607 | 遣隋使(小野妹子) | |
630 | 遣唐使(第一回) | |
645 | 大化の改新 | 中大兄皇子(天智天皇)中臣鎌足とともに蘇我氏を倒し大化の改新を行った。 |
672 | 壬申の乱 | 大海人皇子(天武天皇)天智天皇の弟壬申の乱で勝利し天皇となった。 |
701 | 大宝律令 |
710 | 都を平城京(奈良) に移す | |
712 | 古事記 | 太安万侶古事記、続日本書紀などを編纂した。 |
720 | 日本書紀 | |
724 | 聖武天皇即位 | 聖武天皇東大寺大仏を建立全国に国分寺国分尼寺を配置した。 |
天智天皇亡きあと、大海人皇子(弟)と大友皇子(子)による皇位継承争いがおきて、古代史上最大の内乱となりました。
大友皇子軍が攻めてくると聞いた大海人皇子が出家隠居していた吉野から伊賀・鈴鹿を抜け、いち早く不破道(のちの不破関(関ヶ原町))を塞いだことが、大海人軍勝利を決めたと言われています。(『日本書紀』の解釈による)
大友皇子側の不穏な動き
①亡き天智天皇のお墓を造ると言って、美濃、尾張の農民にまで武器を持たせている。
②近江(滋賀)から吉野(奈良)への食糧を運ぶ道を塞ごうとしている。
これらの知らせを聞いた大海人皇子は吉野を出て戦う事を決意する。
村国男依(むらくにのおより)
身毛君広(むげつのきみひろ)
和珥部君手(わにべのきみて)
に「安八磨郡の多品治のもとへ行き兵を集め不破道を塞げ」と指示を出す。
わずかな人数でひっそりと暗やみを脱出した。
6月26日 村国男依より不破道を塞いだとの知らせがある。
美濃3千で不破道を塞いだ。
現在の関ヶ原町野上に仮の宮(行宮)を置き、そこで7月22日に勝利するまで指揮をとる。
いち早く不破道を塞ぎ、美濃より東国の勢力を近江側と切り離したことが勝利につながりました。
舎人:天皇や皇族の護衛・雑役を務めた下級官人。
湯沐邑:皇族に与えられた領地。
安八磨郡(あじはちまごおり)はのちの安八郡という地名のもとになりました。
この川をはさんで両軍が対陣した。
藤古川の支流。
両軍の激突により兵士の血で
川底の石を黒く染めたことにより
この名が付いたと言われる。
壬申の乱後置かれた関跡。
大海人皇子が兜を掛けたといわれる
「兜掛石」や沓を脱いで足を掛けたと
いわれる「沓脱石」が残っている。
大海人皇子が兵士たちの労を
ねぎらうため桃を配ったことから
この名が付いたと言われる。
大海人皇子が勝利までここにとどまり、
指揮をとった仮の宮があったとされる。
※ 672年「壬申の乱」から900年余り後の1600年「関ヶ原の戦い」の時、徳川家康は、大海人皇子にあやかって、桃配山に陣を敷いたそうです。
壬申の乱は大海人皇子の領地がここにあったことから美濃が舞台となり、又、勝利できた大変重要な地でした。現在、墨俣町にある「不破神社」にはこの神社の神が娘に化身して大海人皇子を助けたいという伝説が残っています。
むげつ氏は古くから関、美濃を中心とする。
武藝郡のちの武儀郡(現在は消滅)を広く治めていた豪族です。
※藝は芸の旧字体で武芸は「むげ」と読めるところからむげつ氏と武儀郡にはつながりがあることがわかります。
各務郡村国郷を拠点とし、江南まで広く治めていた豪族。男依を祭神とする①村国神社②村国真墨田神社が残っています。
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