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(紙版ミニコミ番号:第136号/H30・3、4発行)
1686年鳥羽伏見の戦い後、将軍慶喜が朝廷に政権を返上したにもかかわらず、まだ権力を保持したままであったため、明治新政府が旧幕府勢力掃討のために戊辰戦争を起こしました。
その中で東山道(中山道)を進軍しながら旧幕府軍を鎮圧していこうとしたものを東山道鎮撫隊と言います。
江戸時代、徳川幕府の250年にわたる強固な政権維持がペリー来航により崩れ始めます。
幕府の統率力が弱まり、国を変えようとする勢力と幕府を保とうとする勢力、開国が良いという考えと鎖国が良いとする考えなどで政情はどんどん不安定になっていきます。
このような思想が入り混じる中、各藩は意思の統一に苦悩する事となります。
そして各藩の運命はどう動くかで大きく運命が違う事となりました。
大垣藩の場合を見ていきます。
1635年から230年余り、大垣藩を治めた戸田氏は譜代大名(関ヶ原の戦い以前に徳川家康の家臣であった大名)です。
幕府も和宮降嫁・家茂上京時の警護を任されたり、長州征伐は天狗党西上阻止などで功績をあげるなど幕府とのつながりが強い藩でした。
1866年の薩長同盟により流れは一気に討幕へと動き、1867年大政奉還により政権が朝廷に返上された後の鳥羽伏見の戦いでも旧幕府軍側として会津藩と共に先鋒で戦います。
大政奉還後もまだ旧幕府側にあった政務や土地などを新政府が返還を求めたことに端を発した新政府軍(約5000人)対旧幕府軍(約15000人)の戦いです。
旧幕府軍は指揮が揃わず、たったの4日で敗走してしまいました。
旧幕府軍として戦った大垣藩は朝敵(朝廷にはむかう賊軍)とされ、討伐の危機となります。
同じ旧幕府軍として戦った会津藩と桑名藩も朝敵の指定を受けましたが、これ以後の対応でその道は大きく分かれました。
①会津藩―最後まで新政府軍と戦い廃藩となります。
②桑名藩―藩内での意見が分かれ、藩主は幕府軍として戦う一方、藩主不在の間に反対派が城を新政府軍に明け渡してしまいました。
③大垣藩―小原鉄心が藩を新政府に従う事で統一、東山道鎮撫隊の先鋒となり大垣城から進軍、中山道を反政府軍鎮圧のため東上していきます。
鳥羽伏見の戦いで大坂城から江戸へ退去した旧幕府軍征伐のため、新政府軍が東海道・東山道(中山道)・北陸道の三方から江戸へ進軍しました。そのうち岩倉具視総督とする東山道鎮撫隊が中山道を通りました。
※岩倉具定は岩倉具視の子
※大垣宿では東山道鎮撫隊の先鋒となった大垣藩が岩倉具定のもと軍備を整えました。
※鎮撫隊参謀 板垣退助は2/18に大垣宿で合流しています。
小原鉄心は大垣藩の藩士で新政府にえらばれて参与として京に出仕していました。
ところが大垣藩は鳥羽伏見の戦い(1/3~6)で旧幕府軍として参戦しました。
鉄心はあわてて止めようとするも間に合わず、大垣藩は「朝敵」に指定されてしまいます。
鉄心はすぐ大垣へ帰国、1/10会議により新政府軍への帰属を説得し、わずか数日で藩の方針を統一に導きました。
1/3新政府より東山道鎮撫隊の先鋒を命じられ、これに功労をあげれば朝敵としての罰が許される確約を得ました。
同じ朝敵とされた会津藩は最後まで旧幕府軍として戦い、桑名藩は意思の統一ができず、城明け渡しとなった事を考えると、鉄心の説得が大垣藩を救ったと言えるでしょうか。
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