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今では動物園でも普通に見られるラクダさん、江戸時代には珍獣として人々の間に一大フィーバーをまきおこしました。
(紙版ミニコミ:第29号 H21.6発行)
ラクダにはコブが二つのものと一つのものがいます。
問題1 ラクダのコブは何で出来ている? ①水 ②脂肪
問題2 ラクダのことを〇〇〇の舟という。
問題1答え①
ラクダは体に必要な栄養を脂肪に変えてコブにためておきます。
長い間食べ物を食べることが出来ないとコブの脂肪をエネルギーに変えるためコブは少しずつしぼんでいきます。
熱い砂漠で、断熱材として体温調節の役割もあります。
問題②答え さばくの舟
ラクダはコブの他にも水を血液中に蓄えたり、鼻の孔を閉じる事が出来たり、砂漠を長い間移動するのに適しているため昔から砂漠での人や荷物の移動に利用されてきました。
アメリカ船がフタコブラクダを乗せ、長崎に来て交易を求めましたが、貿易禁止の国であると拒絶されたため、返されてしまいました。
ラクダが来たといううわさは大阪・京都から江戸までも伝わり、ラクダの絵などが多く出回りましたが。実際に人々が見る事はありませんでした。
「らくだ はるしや国より文政四年辛巳六月わたる 高さ九尺長さ弐間 足ハ三つツ節」
オランダ船がペルシャのヒトコブラクダのオス(5才)・メス(4才)2頭を乗せて長崎へ上陸。
オランダ商館長は将軍家斉に献上しようとしますが断られ知り合いの女性にプレゼント!!
それが香具師(やし)の手に渡り、各地で興行しながら中山道を江戸へ。
※当時、日本は鎖国中で清(中国)とオランダだけが長崎のみでの貿易を許されていました。
※香具師 縁日、祭礼などに露店を出して商売したり、見世物などの興行をしたりする人。
和歌山、大阪など各地で興行をしながら中山道を江戸へ移動します。
見たこともない珍獣ラクダの通行は人々にとってどのように映ったのでしょうか。
京都で興行後、中山道を江戸へ向かう途中、香具師が病気になり伏見宿の旅籠三吉屋で3日間滞在しました。
そのうわさを聞き、ひと目見ようと2000人もの人が近隣から押し寄せて大騒動となったそうです。
当時、江戸では外国からの珍獣が動物見世物として庶民の間で流行していました。その中でもラクダは空前の大ヒット。
ひと目見れば大変なご利益が得られ、毛や尿は霊薬になると伝わり、今でいう一大社会現象となる程の騒ぎだったそうです。
江戸両国広小路で翌年まで興行した後、加賀・尾張(名古屋大須)・伊勢・岩国など、地方各地での巡業が5年以上続きました。
猿猴庵は1756年現在の名古屋生まれで本名を高力種信という文筆家兼画家、名古屋城下の出来事を中心に記録絵本を中心に作品を遺しています。
その中に、尾張でのらくだ興行の様子が詳細に描かれいます。
「扨も江戸の見せもの済て、加賀国を経て濃州岐阜に至り、それより我が尾陽に入て、大須の東門前に於て見世物とする。頃は文政九年丙戌十一月にてありし。」
この資料から次のような事がわかります。
〇江戸での興行の後、北陸から岐阜を経て名古屋へ入り、1826年11月1日から大須の東門前で見世物とした。
〇見世物のらくだを興行前に人目にさらさないように、移動はいつも夜に行われた。
〇木戸銭は三十二文、高い見世物だったが入城券は飛ぶように売れた。
〇ラクダの毛が疱瘡、はしかの守りになるという宣伝ポスターとや、オスメスとも、穏やかな性格で、夫婦仲睦まじいと書いて小屋に貼ってある。
〇口上の後、唐人の格好をした人に付き添われて更紗の布が掛けられたラクダが登場。
〇大根やサツマイモを食べさせて見せる。
〇京・大阪では繋いでいたけれど、ここでは放している。
〇ひとりがラクダに乗り笛を吹き、一人は太鼓で歩かせて一周して楽屋へ入る。
〇ラクダの背の形をした櫛、ラクダの細工人形、お雛様、凧、絵、たばこ入れ、水入れ、双六などラクダグッズも売られていた。
〇翌年再び尾張に来た時は前ほどのブームにならなくて入場料が安くなった。
その後ラクダ興行は10年余りに亘り、メスが尾張で、その3年後にオスが大阪で亡くなったそうです。
ラクダの中山道通行についての詳細は残念ながらあまり残っていません、猿猴庵が記しているように夜ひっそりと通行していったのでしょうか?
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