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稲葉良通、出家後の法名「一鉄」は大垣市の曽根城主 稲葉通則の六男として母の実家揖斐郡池田町の本郷城で出生したといわれています。
幼くして仏門に入りますが、1525年に起こったマキタの戦いで父と兄5人を一度に失ったため、急遽わずか11歳で家督を継ぎ曽根城主となりました。
土岐頼芸→斎藤道三→斎藤義龍→斎藤龍興→織田信長→豊臣秀吉 と 時の権力者の家臣として戦国時代を生き抜いた優れた武将でした。
※あくまで逸話であり、史実とは限りません。
一生の間に線上に臨む事80回余り、一度も敗けたことがないといわれています。合戦の多くは信長の家臣時代のものです。
1570年姉川の戦い(織田・徳川軍×浅井・朝倉軍)での事
稲葉一鉄が頑固一徹の語源になったという説があるほど頑固者でした。
姉川の戦いで先行を挙げた事
一鉄の娘婿であり家臣であった斎藤利三が一鉄の元をさり、明智逸英の家臣となった事
信長の激しい叱責が光秀の本能寺の変へのきっかけのひとつになったともいわれています。