歴史

信長いよいよ稲葉山城攻めへ

2022.09.20(火)

織田信長 美濃侵攻まとめ地図

信長が美濃を攻めあぐねている一方で稲葉山城の斎藤龍興側の結束力もゆらいできます。

1564年2月 家臣竹中半兵衛によるクーデターがおこる。

1567年   西美濃三人衆が信長側へと寝返り

 稲葉山城攻めへと勢いがつきました。

※「西美濃三人衆」北方城の安藤守就・曽根城の稲葉良通(一鉄)・大垣城の氏家卜全

稲葉山城占領事件(1564年)

2月6日半兵衛(当時20歳)は義父で北方城主の安藤守就と突如 白昼堂々と稲葉山城に乗り込んだ。城内は混乱し、龍興は城を逃れて本巣郡の鵜飼・祐向の城や大野郡の揖斐場に籠城した。占領は8月まで続いたが、半兵衛が龍興に稲葉山城を変換した。

理由ははっきりしていませんが、政務をおこたる龍興を諫めるため、または一部の重臣ばかり重用していたのを不満に思っていた当と考えられています。

竹中半兵衛(重治)1544~1579年

美濃国大野郡で生まれる。父重元と不破郡岩手城を攻め、父のあと岩手城主となる。斎藤道三に仕え、その後、義龍・龍興と斎藤家に仕える。(※1564年までの略歴)

西美濃三人衆の寝返り

織田信長の長年にわたる美濃侵攻で1565年に東美濃を掌握したものの、前半(1560~1562?年)攻めきれなかった西美濃勢のため、斎藤龍興の稲葉山城を切り崩すことができずに1年が経過します。

しかし1567年龍興の重臣であった西美濃三人衆が申し合わせて信長に内応し、これを機に信長は一気に稲葉山城を攻撃し半月程で陥落させてしまいました。

※安藤、稲葉、氏家の西美濃三人衆は西美濃を治めていた龍興の重臣です。三人とも土岐頼芸→斎藤道三→義龍→龍興に仕えました。龍興に進言したところ逆に主君から疎まれ、それを不満に思い信長の調略もあって寝返ったのではないかといわれています。

稲葉山城攻め(1567年8月か9月か)

西美濃三人衆が信長への内応を申し出た。その忠心をを示すため人質を出すこととなり、信長の家臣が人質を引き取りに西美濃へ赴いた。しかし、信長は人質の到着を待たずに突然出陣。

稲葉山城の南、瑞龍寺山へ登り、美濃側が敵か味方かと慌てふためく中、稲葉山城の周りに火をつけて城を孤立させてしまった。

翌日、城の四方に鹿垣をめぐらせて龍興らを城へ封じ込めた。

龍興は降伏して(脱出した説も有り)船で長良川を下り伊勢へ逃れ、半月程で稲葉山城は陥落した。(「信長公記」参照)