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瑞穂市十七条にかつてあった十七条城は春日局の夫、稲葉正成の生まれた場所です。(紙版ミニコミ番号:第59・60号)
江戸幕府三代将軍家光の乳母。
家光を将軍とするため、家康に直訴した逸話がある。大奥の組織を整備し、絶大な権力を振るいました。
父は美濃国白樫城城主であった。
斎藤義龍、稲葉一鉄に仕え、その後明智光秀の重臣として活躍。
妻は稲葉一鉄の姪と伝えられています。
※稲葉一鉄は当時、曽根城主(現大垣市)。美濃三人衆と呼ばれた一人です。
1330年代美濃国守護土岐頼貞の子が舟木荘内の十七条に城を築き、舟木頼胤と名のり、城主となりました。
戦乱の時代、幾度も城主は入れ替わり、1500年代、林氏が入城。1571年 林政秀(資料によっては正三)の次男 市助(のちの稲葉正成)がここで生まれました。
曽根城稲葉氏と十七条城 林氏は領地が入り組み、争いが絶えませんでした。
その和睦のため、正成が稲葉家の婿養子となります。
その妻に先立たれ、その後にお福と結婚しました。
稲葉一鉄の長男重通の娘婿となり、一鉄とともに秀吉に仕えます。その秀吉の命で小早川秀秋の重臣となりました。
関ヶ原の戦い(1600年)で勝敗を決めたと言われる「秀秋寝返り」は裏で正成が動いたと言われています。
お福の曾祖父から父利三まで三代にわたる斎藤家の居城であるためお福生誕地とされています。
稲葉一鉄が曽根城から移り住んだ城。
本能寺の変(1582年)後、明智光秀の家臣であった父利三が主君とともに謀反者として捕らえられて亡くなった時、お福は数えで4才。
母の実家である権力者一鉄のもと(清水城)でかくまわれたかとも考えられています。
稲葉一鉄の居城。曽根古城跡図により斎藤利三屋敷があったため、ここもお福生誕地とされています。
※お福生誕地については不明で様々な説や伝承があります。
関ヶ原の戦いで社殿焼失。春日局の願いにより家光が再建させました。
関ヶ原の戦いで東軍勝利の要因となった稲葉正成の主君小早川秀秋が陣を取った場所。
関ヶ原の戦いの後、1602年小早川秀秋の家老職、5万石の身分を捨てて、正成一家が暮らした地。
秀秋に意見を聞き入れられない正成が家臣を辞し、浪人の身となり弟を頼って谷口に住んだと言われています。
稲葉正成生誕地。
谷口で暮らしていたお福は1604年正成と離婚して、のちの徳川三代将軍家光の乳母として江戸城へ・・・。
1607年正成は美濃一万石大名として再びとりたてられます。
その中には故郷十七条1000石も含まれていました。
1610年頃、正成が森部1300石を治めていた記録が残っています。
現在、金峯神社にその屋敷があったとされています。
ここに下屋敷の小字名が残っています。
※下屋敷とは別邸の意。『安八町史』
美濃一万石のうち、現羽島あたり9000石を治めており、ここを拠点として町づくりをしました。『羽島市史』
熊野神社近くの民家が十七城跡です。
神社境内に立つ石碑
「十七条城は、南北朝時代の初め、船木頼胤が築いた城です。
城主は、数代かわり享禄年間(1530年頃)より林氏の居城となりました。林家は、徳川家康に仕えて、二万石を所領していました。
お福(のちの春日局)の夫となる、林正次は、元亀二年(1571年)この十七条城で生まれました。
成人すると、大垣・曽根城主、稲葉重通 (一鉄の子)の養子となり、稲葉正成と改姓し、お福と結婚しました。(文禄四年1595年)
お福と正成との間の次男正定は、尾張徳川家に仕え、旧領十七条1006石を所領しました。
正定の孫の代で後継ぎがないため、家はと絶え、その釆地は、尾張藩に組み入られ、十七条城は廃城となりました。」 (説明文)
白樫城案内図