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現在、小簾紅園のある地はかつて呂久川(揖斐川)が流れており、天正8年(1580年)織田信長の長男信忠により「呂久の渡し」が開設されました。以後、中山道と揖斐川が交差する「呂久の渡し」は交通の要衝として歴史的に重要な役割を担ってきました。
信長は美濃掌握後、天下統一をめざし岐阜城から、のちの中山道を京・越前へと何度も往復しています。
信長の一代記『信長公記』にも「呂久の渡し」の場面が描かれており、この頃から渡しが整備されていったと思われます。
東軍黒田長政隊が河渡川を越え、のちの中山道を通り、呂久で宿営したとあり、又岐阜を落城させた東軍も赤坂まで中山道を進んだと思われます。
〇伊能忠敬測量隊(1809年)
〇十返舎一九『続膝栗毛』(1810年代~)
〇姫行列(1657・1731・1749・1804・1831・1849年)
〇和宮大行列(1861年)
〇浪士隊(1863年)
〇東山道鎮撫隊(1868年)
〇明治天皇巡幸(1878年)
大正14年(1925年)揖斐川の改修により「呂久の渡し」も数百メートル東の新川筋へ移動、昭和27年には「もぐり橋」ができて、「呂久の渡し」は廃止となりました。
そして現在の「鷺田橋」が出来るなど様々な変遷があり、それに伴い呂久の人々の暮らしも変わりました。
現小簾紅園にあった旧呂久の渡しといえば、和宮様渡船(1861年)が一大イベントでしたが、それから17年後(1878年)、明治天皇が北陸・東海巡幸された際、仮設の舟橋を架けた事も重要な歴史です。
川幅に舟を並べて、その上に板を敷いて橋としたもので、江戸時代には将軍と朝鮮通信使の通行時のみ設置が認められました。
『岐阜県御巡幸誌』によると
「天皇林村より御板輿に召させ御進發あらせたまふ。劔 (剣) 璽は御唐櫃にて御先行、(中略)樂田村を過ぎ呂久川に到る。(中略)臨時御用扱と共に奉迎し 前日竣工せる假(仮)船橋のことにつきて何くれと心を用ふ。事無く渡御したまふ。」
とあり、船橋が前日に完成するという突貫工事だった事がわかります。
※「 劔璽 (けんじ)」とは三種の神器のうち剣と勾玉で、かつては天皇巡幸の際に持ち出され、天皇に随行させました。
同じく『岐阜県御巡幸誌』より
明治11年(1878年)10月22日 大垣本陣跡飯沼邸で宿泊された明治天皇は
翌日23日午前7時半に出発
林町で道が狭くなる為、御板輿に乗られ呂久川を無事渡り、
午前8時20分 呂久村 馬渕次(治)郎右衛門方に着かれ、小休止。
午前8時35分 御馬車で中山道美江寺・本田を通過していかれました。
大正14年(1925年)の揖斐川改修により、呂久の渡しを移動したときに「岡田式渡船装置」が設置されました。
「岡田式渡船」とは関市出身の岡田只次が明治33年に考案した渡船方法で悪天候でも船が流されず、最盛期には全国60ヶ所の渡船場で使用されました。
①信長の天下統一・関ヶ原の戦い・和宮の大行列など歴史的に重要な役割を果たしてきた呂久の渡しの交通は、明治以降の産業の発展により往来が頻繁になり通行に支障をきたすようになってきます。
②大正14年の揖斐川改修で、もとは家と陸続きだった農地・学校を新しくなった川筋により分断されてしまったため、呂久の人々は渡船の利用を余儀なくされ、不便を強いられる事となりました。
※旧揖斐川時代の呂久の渡しには、明治12年に橋が架けられた記録があります。明治19年には更に架け替えられましたが、明治29年に大洪水で流失してしまいました。
①②の理由で呂久の人々は昭和22年、国・県へ架橋を要請しました。太平洋戦争直後の財政難により、すぐには許可が下りず、昭和26年にようやく600万円の工費をかけてこの地域の人々念願の橋、通称「もぐり橋」を架橋する事が認められました。
もぐり橋とは平水時には通行できますが、増水した時に水没する事を前提として架けられる橋で、工費が安く済むため、昭和30年代に多く設置されました。
普段、水のある所だけに低く設置され、増水時に川の流れを妨げないよう、欄干が無いか、低いのが特徴です。
〇大雨で増水した時は生徒が全員で下校した。
〇台風などで橋が渡れない時は2km程下流の揖斐川橋まで遠回りをしなければならず、その橋は板張りで所々に穴が開いていて怖かった。
〇冬に凍結した橋から車が落ちた事があった。
昭和50年、現在の鷺田橋が完成して、これまで川で分断されていた呂久の人々の生活もようやく安全なものとなりました。
瑞穂エリアにおける東海道線とローカル鉄道の変遷へ