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(紙版ミニコミ番号:第110号/H28.3発行)
織田信長、豊臣秀吉に仕えた織部は関ヶ原の戦いで徳川家康の命を受け、茶人としての人脈による説得工作を主に行い、東軍勝利に貢献しました。
その後、徳川二代将軍秀忠の茶の湯指南役となります。
将軍の茶の湯指南役ということは、天下一の茶人であるということです。信長、秀吉、家康、秀忠と次々と武士として、茶人として登用されたことから、織部は文武共に優れた才能ある人物であったことがわかります。
しかしこの後、家康と織部の間には亀裂が生じます。
天下統一後、体制を整えるため、従う事を求める家康に対して、体制にとらわれない自由な茶の道を体現する織部・・・。
方広寺は秀吉の発願によって京都に建てられたお寺ですが1596年の大地震で倒壊しました。
その後、豊臣秀頼(秀吉の子)により再建が進められ、1612年に大仏殿が完成、さらに1614年、鐘が鋳造されました。
その鐘に刻まれた銘文『国家安康』『君臣豊楽』(漢文に秀でた僧、清韓による作)に家康は激怒。
『国家安康』は家康の名を分断しており、『君臣豊樂』は豊臣を讃えていると。
この事件が大坂冬の陣へのきっかけになったのではないかと言われています。
家康はその銘文を作った清韓に蟄居(謹慎)を命じます。その清韓を織部が茶会に招いたことから家康の怒りを買います。
織部もそんな事をすれば家康が怒るのも当然とわかっていたはずですが、利休の別れの時と同じく、自分の信ずることを貫く方が大切だったのでしょうか。
1615年 大坂夏の陣で家康は豊臣氏を滅ぼした後、突然、謀反の疑いで織部に切腹命令を下します。
織部に謀反があったかどうかは謎です、徳川と豊臣の和平の為に動いていたことがスパイ活動と取られてしまったとも言われています。
ただ、
①茶人として徳川・豊臣の分け隔てをしなかったこと。
②家康という権力を恐れず茶の道を重んじて茶人としての姿勢を貫いた事。
③天下の茶人であり大名たちから尊敬されていた。
これらのことは家康にとっては面白くなく、危険人物に見えたに違いありません。
家康は織部に切腹を命じた上、一家断絶とします。
さらに偉業さえもないもとして歴史から消し去られていました。
近代になり、研究者や地元の努力で、ようやく織部の偉業が見直されてきました。
現在、本巣市には山口城址、道の駅「織部の里もとす」など織部ゆかりの地が整備され、市内小・中学生が授業で織部焼きを製作するなど、織部の歴史はようやく掘り起こされ、これからも語り継がれていきます。
非対称の美、ゆらぎ、独自性、自由、多様といった概念を持った織部、今でこそそういったものの重要性が問われる時代となりましたが、それを400年も前に、また戦国の混乱の世に築きあげたことはやはり偉業と言えるでしょう。
この織部の精神を岐阜県の産業、文化の発展に生かしていこうと『オリベイズム』という言葉が生み出されました。