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(紙版ミニコミ番号:第136号/H30・1発行)
朝廷の京都と幕府の江戸を結ぶ道中山道は、幕末においても重要な役割を果たしています。吉田松陰、桂小五郎、浪士隊、水戸浪士隊などがそれぞれの思いを胸にこの道を通過しています。
吉田松陰は長州(山口県)藩士、二度目の江戸遊学の時、各地で様々な人物と会いながら桑名から船で今尾(海津市)へ。そこから大垣宿泊→呂久の渡し→美江寺宿→中山道を江戸へ向かいます。(嘉永癸丑吉田松陰遊暦日録)
その年、ペリーの艦隊を浦賀で見て、翌年 再来したペリーの船での密航を計画しますが、失敗に終わりました。
※ペリー来航での幕府の対応に対する不満が尊王攘夷や討幕運動のきっかけとなりました。(尊王攘夷等については次回掲載予定)
桂小五郎
幕府派×反幕府派の対立が激化するなか、
1858~9年安政の大獄(幕府井伊直弼による反幕府派への弾圧)
1860年 桜田門外の変(反幕府派による井伊直弼襲撃)
が起こります。幕府はこの対立を鎮めるため、天皇(朝廷)と手を組む「公武合体」をすすめます。天皇の妹、和宮様の将軍徳川家茂への御降嫁はこの政策の為でした。
中津川会議で長州藩が尊王攘夷・討幕運動へと大きな舵を切り、幕府による1864年と1866年の二度の長州征伐へと続きます。
家茂は外国を追い払いたい天皇の求めに応じて、上洛する事になりました。京の討幕派から家茂を警護する目的で江戸で組織されたのが浪士組です。家茂の上洛に先立って江戸から中山道を京へ240名ほどが7組に分かれて進みました。
2/8江戸→2/19加納宿→2/23京都入り
慶喜(のちの15代将軍)に進言するため京へ
芥見→高富→曽井中島→揖斐→谷汲→日当・金原→根尾村を通り、雪の峠を越えて越前へと抜けましたが、新保(敦賀市)で力尽き、投稿しました。
天狗党は水戸藩(茨城県)の尊王攘夷派を中心とした集団で、攘夷を訴えるため中山道を西上。しかし、太田宿を過ぎた所で幕府側に行く手を阻まれ、鵜沼宿から中山道を逸れました。
水戸天狗党
幕末、水戸藩では、尊王攘夷派と保守派の対立が激化。
1864年3月、攘夷を幕府に迫るため、筑波山で挙兵したのが天狗党です。
天狗党は幕府軍や保守派と戦いますが、追いめられます。
そこで京にいる徳川慶喜に攘夷を訴えるため、11月1日中山道を西へと出発しました。
戦うためではなく、訴えるための出発でしたが、幕府軍が追ってきたり、通貨する藩へ幕府から天狗党を討ち取れと命令が出たりで、各地で高専もしながら11月26日は馬籠宿と落合宿に分泊し、美濃へと進んできました。
※馬籠宿出身の島崎藤村は『夜明け前』の中で天狗党について詳しく記しています。馬籠宿と落合宿に分かれて一泊し、11月27日中津川宿で昼食をとったこと、お礼に甲冑片袖や詩歌の短冊などを置いていったこと、病気の老女に薬を与えたこと、天狗党は恐ろしいと思っていた人々もこのような態度に心を打たれ、彼らに好意を寄せるものも決して少なくなかったことなど・・・。
12/1 揖斐宿泊、この頃河渡及び呂久で大垣藩・彦根藩などが軍勢を待機させたため、大垣・彦根を通って京へ入る事を断念し、北上しました。
11/29鵜沼宿あたりで、尾張藩などに進路を阻まれたため、中山道をそれて北上しました。
※天狗党が京で頼ろうとしていた慶喜は逆に天狗党討伐に出陣、この時まだ天狗党はそのことを知りませんでした。
『根尾村史』よりわかる天狗党の様子
・12月3日根尾村に入る。1000人近い大集団であり村人は恐怖で雨戸を閉め、家の中からのぞき見をしていた。
・野営軍に対して村人が薪を持ち寄り、炊き出しをした。
・翌4日は雪、5日は積雪で2m余りの大雪の中を進む。(根尾の後、峠をこえ越前へ向かう)
天狗党は越前から大きく迂回をして京都を目指したが、行く手を阻まれ、頼りにした慶喜が幕府軍を率いていることを知り、加賀藩に投降、鎮圧された。
次回は幕末の幕府弱体化による混乱と、各藩が幕府側、反幕府側のどちらにつくかによって大きく命運を決めた様子を大垣藩中心に詳しく見ていきます。
東山道鎮撫隊が中山道を東上!へ