コンテンツ
6日 | 後光厳天皇、京の二条良基庵から比叡山へ行幸された。 |
9日 | 南朝(吉野)が京で北朝を攻略したため、足利義詮は後光厳天皇を守護する目的で近江国坂本へ逃げた。 |
13日 | 足利氏の片腕として活躍していた美濃国守護で小島城主、土岐頼康の勧めもあり、後光厳天皇を奉じて垂井長者が家を仮の宮とし、瑞巌寺付近を経て |
14日 | 頼康の居宅に避難し、行宮とした。 |
10日 | 義詮、京へ向かう |
25日 | 北朝、京を奪還した。 |
8月 | 雨の日が多く、歌会などをしていた。 都から多数参った殿上人などは連れ立って養老の滝、寝覚めの里などの名所へ行って遊んだと言う事です。 ※殿上人・・・天皇の日常生活の場である清涼殿の殿上間へ昇ることを許された人。 |
足利尊氏が鎌倉から上ってくるのを「今日だ今日だ」というように聞こえたが、ただ同じようなことで日数がたち、待ち遠しいと帝(当時16才)は度々使いを出した。 | |
その後、もう間もないだろうと返事が来たので、みな安心したようだ。 | |
25日 | 尊氏が尾張に着いたとの知らせに小島から垂井へ行幸された。 |
「その時の有様は、所定の非常の方式で、天皇は腰輿(ようよ)にお乗りになる。貴族も衣冠をつけた人はなくて、武装の姿は珍しいことだ。めいめいが思い思いの服装をしているのも、かえって見どころがあったのであろう。鳳輦(ほうれん)の帷子(かたびら)を腰輿に渡してかけたのは初めてのことだが、・・・」(『小島のすさみ全釈』より)
所在地は不明(垂井町御所野の説も有り)
垂井頓宮は美濃国の守護、土岐頼康が命を受けて造営した。
黒木の御所(川のついたままの木で作った御所)で小柴垣(木や竹の小枝を細かく束ね並べて作った低い垣)などを周囲に囲ってあって神々しい。帝がお入りになった際、見物する連中はどこから集まってきたのか、大変大勢である。
尊氏は1352年1月から東国を平定するため関東に滞在していましたが、7月29日鎌倉を発ち、尾張を経て、9月3日に垂井へ到着しました。
その有様(尊氏到着の様子)は立派ですばらしかった。まず二、三日は武士たちがすき間のないほど宿々に着く。大納言(尊氏)は錦(赤地)の鎧直垂を着、小具足(こぐそく・鎧に付属する防具)をつけて、栗毛の馬に乗っている。さきうち(先払い・行列の先頭を行く武士)は結城・小国・佐竹(三者とも常陸の豪族)などという者たちである。いろいろな色の鎧冑と、水のしたたるような兜の鍬形の先がきらきらと夕日に輝く。後陣には、東国の武士が、残らず付き従っている。将軍(尊氏)の馬の前には饗庭命鶴丸氏直がこの上ない姿で、関東第一という黒い馬に乗っている。年のいったあげまき姿も全くわるくなく、ほんとうにこの場にふさわしい。
「あげまき」とは髪を中央から二つに分け、左右の耳の上で輪の形に束ねる結い方です。
9月12日 義詮も垂井へ到着し京へ帰るばかりでしたが、尊氏が病気となり、17日になって後光厳天皇一行は垂井を発ち、21日に京へ還幸となりました。