歴史

瑞穂エリアにみる東海道本線・ローカル鉄道の変遷

2019.07.16(火)

私達の地域瑞穂市はJRと樽見鉄道が通り、電車が通る風景が日常に溶け込んでいます。(樽見鉄道はレールバスですが)

田園風景を走り抜ける車両、揖斐川と長良川の鉄橋を通過する姿、1日に何度も何度も目にする光景です。

そんなことから、この地域の鉄道について見てみようと思います。

(紙版ミニコミ:第10.11号 H22.5発行)

瑞穂エリアに見る東海道本線・ローカル鉄道の変遷

蒸気機関車の模型にビックリした江戸の人々

幕末、ペルーにより蒸気機関車の1/4の模型が持ち込まれ、実際に走るのを見た人々はとても驚きます。

それもそのはず、江戸時代の移動手段と言えば、徒歩か駕篭、近未来にリニアモーターカーで東京=名古屋間40分!と言って驚く現代人とはわけがちがいますよね。

それからわずか18年後の1872年、日本ではじめての鉄道、新橋―横浜間が開通。その後、急速に全国各地に線路は伸び、まさに鉄道網約27000km。

東海道線全線開通までの軌跡

明治5年   新橋=横浜

※大正3年東京駅が完成し、東海道本線の起点が「新橋駅」から「東京駅」へ移されました。

明治7年   大阪=神戸

明治10年 大阪=京都

明治13年 京都=大津

明治15年 大津⛴長浜

※明治15年~22年大津―長浜間は琵琶湖の鉄道連絡汽船でつながれていました。

明治16年 長浜=関ヶ原

明治17年 関ヶ原=大垣

明治19年 一宮=名古屋=大府

※明治19年当初は「名護屋駅」明治20年「名古屋駅」に改称。略称「名駅」めいえきはこの辺りの地名となっています。

明治20年 大垣=岐阜=一宮

※初代岐阜駅は「加納停車場」明治21年「岐阜停車場」と改称。現在まで2回場所を移転しています。

明治21年 大府=浜松

明治22年 浜松=静岡=横浜

明治22年 大津=米原=長浜

     米原=関ヶ原 

これで東京=神戸間が全線の開通となりました。 

計画当初は東海道本線ではなく中山道本線になるはずだった!

※当初は両端から中山道沿いに鉄道建設のが始まったのが、急勾配やトンネルなどで難工事と工費がかさむなどの理由で東海道沿いに変更されました。そのため、当初中山道計画の時に京都方面から建設された、草津=岐阜は東海道本線の一部ですが中山道に沿っています。

もし最初から東海道本線計画であれば、この地域を通っていないことになりますね。

私達の地域を通る線路は生活の足!

瑞穂市には穂積駅、横屋駅、十九条駅、美江寺駅があり、毎日通勤に、通学に、たくさんの人々が利用しています。

また、これらの駅から岐阜駅、大垣駅へ行けば近くは揖斐、養老、桑名方面へも足を延ばせます。ローカル線にゆったり揺られながら、西濃平野とそれを囲む山々の景色を楽しむことができるのは、新幹線の旅とはまた違った贅沢だと思います。

正解

①美濃赤坂線 

東海道本線大垣駅と美濃赤坂駅を結ぶ支線。始発大垣駅からはわずか5km6分の旅

②養老鉄道養老線

③樽見鉄道樽見線

④JP東海 東海道本線

鉄道建造物見どころ

①西大垣駅木造駅舎 西大垣駅(大正2年築)は嵐主演映画「黄色い涙」ロケ地 ②美濃赤坂駅木造駅舎

美濃赤坂駅(大正8年築)は「にっぽん木造駅舎100選」に選ばれています。

③大垣駅プラットフォーム

大垣駅のプラットフォームの柱は線路としてしようされたレールを再利用してデザインされています。この溝に学校の上履きを挟んで遊んだこともあると言っていた人がいましたがやめて下さいね。

④鉄道池

JR東海道本線がこの地域では築堤を走っていますが、この築堤は鉄道沿線の他の土を使用して盛り土をしたものです。そのため田の土を掘った跡が池となり、現在も残っている所があり、鉄道池と呼ばれています。

⑤橋梁

イギリスの最先端技術駆使の旧揖斐川橋梁!【上記東海道本線初代橋梁】

揖斐川上に現在の東海道本線鉄橋と並行してかかるクリーム色の橋が旧揖斐川橋梁です。(現揖斐川橋)

1913年までこの橋を汽車が走っていました。東海道本線開設当時の場所に唯一現存する貴重な橋です。

当時のイギリスによる最先端技術が駆使された価値ある建造物として2008年国の重要文化財に指定されました。

現在は歩行者、二輪車のみ通行可能な道路として使用されています。

鉄道高架下に点在するまんぽ

まんぽとは鉄道線路などの下をくぐるトンネル状の通路の方言だそうです。

築堤を走る東海道本線、築堤を横切る大小の道路はまんぽをくぐることになります。

まんぽには穂積駅東のように車の通れる大きさの物もあれば、人目につかない所にあっって「千と千尋の神隠し」のように通ってみたいけれど少し怖いものまでありますね。

揖斐川と犀川の間には東海道本線築堤に車の通れるまんぽが2つあります。中のレンガの積み方の違いを比べてみて下さい。(車の通行にはくれぐれも注意して!!)

レンガが斜めに積んである甲中吹橋りょうの方はまんぽの中でも特に「ねじりまんぽ」といって全国に30か所ほどしかない珍しい工法だそうです。

レンガは明治初期から大正にかけて鉄道の発達とともに鉄道建築にたくさん使用されました。この地域でも、まんぽの他に橋脚や鉄橋などにレンガを見る事ができます。

明治39年初代穂積駅から現在までの流れ

明治初期から急成長を続けて来た鉄道も昭和40年頃より徐々に車社会へと移り変わり、役割を終えた鉄道の廃線を余儀なくされる事も少なくありません。

私達の身近なところでも、名鉄揖斐線(岐阜市の忠節駅から揖斐郡黒野駅を経て本揖斐駅まで結んでいた路線)が2005年に廃止(この時点では黒野駅が終点)、同じく名鉄谷汲線(黒野駅から谷汲駅)がそれより前2001年廃線、残された線路と展示されているかつての電車車両をいるたびにしばらく物悲しい気持ちになったものです。

忠節駅へ接続していた岐阜市内の路面電車も2005年廃止、岐阜の街中を電車が走っていた事も忘れてしまっています。

そんな中、樽見鉄道は何度も廃止の危機がありましたが、現在元気に走っているのをみると”頑張れ”と思わずエールを送りたくなります。

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