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頼遠の甥、初代よりずっと足利尊氏に付き従い、南北朝時代においても頼康はおじ頼遠とともに、北朝側として戦いました。
1342年頼遠が光厳上皇に狼藉をはたらき刑死した後、土岐氏は連帯で罰せられる事なく、頼康が美濃守護を引き継ぎました。
頼康は観応の擾乱での働きにより、のちに美濃だけでなく尾張、伊勢の守護にも任ぜられる程の信頼を中央から得ています。
1336年御醍醐天皇が吉野へのがれて南朝を設立し、二人の天皇が存在した南北朝時代(室町時代に含まれる)が始まりました。
その後も南北朝のせめぎ合いが60年程続き、日本各地で戦乱が起こりました。
1336年 | 湊川の戦い | 摂津国(現兵庫県) 南朝×北朝 楠正成戦死 |
1338年 | 藤島の戦い | 越前国(現福井県) 南朝×北朝 新田義貞戦死 |
1339年 | 御醍醐天皇崩御 | |
1348年 | 四条畷の戦い | 河内国(現大阪府) 南朝×北朝 |
1350~52年 | 観応の擾乱 | 北朝の内紛 |
※1351年 正平一統・・・尊氏は一時的に南朝と和議を結び、北朝の天皇が廃位。しかしわずか5か月足らずで和議は破れ、後光厳天皇をたてて北朝を再建
1352年 室町幕府が観応半済令を出す。
南朝が京へ攻め、後光厳天皇は比叡山へ逃れます。尊氏の子、義詮が防戦するも支えきれず、後光厳天皇を奉じて、土岐頼康を頼って美濃の小島へ逃れました。
のため少し重複するところがあります。
1352年、南北朝の混乱の中、室町幕府に擁立され、15歳で即位
1353年6月、北朝足利尊氏が前年より鎌倉に滞在するなか、南朝が京へ襲撃。京を守っていた義詮(尊氏の子で室町幕府2代将軍)は、防ぎきれずに後光厳天皇を奉じて美濃へ逃れました。
美濃守護3代土岐頼康は天皇を揖斐郡小島にお迎えし、頓宮を造営。2カ月程滞在され、その後垂井へ移られ、北朝が京を奪還した後の9月に還幸されました。
この時の様子を『小島のすさみ全釈』『不破郡史』などの資料から見ていきます。
二条良基(1320~1388年)は、南北朝時代に関白太政大臣を歴任、また歌人でもあります。
病のため、天皇に同行できず遅れて美濃へ向かいました。そこから京へ戻るまでの事が記載された所です。(関白が城外に出る先例がなかったため同行しなかったと言う説もあり)
義詮・後光厳天皇は西近江から北近江に出て垂井を経て小島へ
義詮軍が京を奪還し、後光厳天皇は鎌倉から垂井へ到着した尊氏とともに京へ還幸されるまでの3カ月程、小島と垂井の行宮に滞在されました。
次回は「小島のすさみ全釈」から後光厳天皇の美濃行幸の様子を見てみます。
後光厳天皇の美濃行幸へ