前回まで関ヶ原の戦い前哨戦を見てきましたが、最後の前哨戦は赤坂、杭瀬川をはさんでの戦いでした。
(紙版ミニコミ番号:第101号/H27.6発行)
慶長5年(1600年)8月23日に岐阜城を攻略した東軍は、翌日江戸からの家康の到着を待ちながら、赤坂の岡山に本陣をかまえ、杭瀬川をはさんで4km先に陣をはる大垣城を拠点とする西軍とにらみ合いを続けていた。
※岡山は関ヶ原の戦い後、家康の勝利にちなんで”勝山”と呼ばれるようになりました。
一方、関ヶ原の戦い前日(9月14日)、家康は早朝に岐阜を出て、中山道ではなく一本北の東山道あたりをひっそりと進み、昼頃本陣へ着きます。
家康が着陣すると岡山山上に金扇馬標(きんせんうまじるし)・葵紋の旗7本・白旗20本を大垣城の方へ向けて立てて西軍を威嚇。
急な家康の到着に西軍には動揺が広がりました。石田三成は兵の士気を高めるため、東軍へ奇襲をかけることに。
夕刻、西軍島左近は500の兵を率いて川を渡り、東軍の目の前で稲を刈り挑発。
東軍中村隊はその挑発に怒り、猛攻撃を開始。敗退とみせかけて引き返した西軍を追って川を渡ります。
そこには伏兵があらかじめしかけられており、西軍の策略にはまってしまいます。
家康は一部始終を岡山から見ており、深追いすればするほど被害が多くでると、最後には撤退を命じ、東軍の負け戦となりました。
この戦いを“杭川瀬の戦い”といいます。
いよいよ次回は家康、三成が関ヶ原へ向かい、関ヶ原の戦い開戦となります。
関ヶ原の戦い激突から半日で勝敗決するへ