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(紙版ミニコミ番号:第102・103号/H27.7・8発行)
家康が大垣城を攻めずに西へ向かうとの情報が入り(家康が三成を大垣城から誘い出すためだったとも言われています)、三成は雨の中これを阻止するため、関ヶ原へ向けて大垣城から出陣しました。
三成は大垣城を出て南下し、南宮山を北に見て伊勢街道沿いに関ヶ原へ!
途中、西軍の陣所数か所に寄り、協議をしながらの進軍で笹尾山へ着陣。
三成が関ヶ原へ向かったとの報告に家康は岡山本陣を出て、関ヶ原へ向けて出陣しました。
東山道(のちの中山道)を通り、桃配山に着陣!
※桃配山は壬申の乱で大海人皇子が陣を敷いて勝利した場所(戦いのさなか、兵に桃を配って士気を高めたとされる)
家康はこの故事にちなんでここに陣を置いたと言われています。
伊藤盛政(大垣城主で西軍)は大垣城を三成に明け渡してから松尾山に城を築きました。
そこへ伏見城落城後、三成の指示に従わず西軍への忠誠を疑われていた小早川秀秋が押しかけ盛政を追い払って居座ったと言われています。
松尾山は関ヶ原を一望できる重要な拠点。当時わずか19歳の秀秋の動きが関ヶ原の戦いに大きな影響を与える事となります。
(紙版ミニコミ番号:第104号/H27.9発行)
この戦い、福島正則が先鋒をとる事となっていました。
しかし、直政と娘婿 松平忠吉の隊が、「ただ見に行くだけだ」と言って、福島隊の前へ出て宇喜多隊へ向けて(あるいは島津隊へとも)発砲。
これが開戦の合図となり、両軍の撃ち合いとなりました。
※先鋒とは軍の一番先に立って戦う者を言い、この役に指名されるのはとても名誉な事でした。
黒田陣地から狼煙が上がったのを始まりとして、各陣から狼煙が上がり戦いの火ぶたが切られました。
正則は直政の抜け駆けに怒り、すかさず前進。
宇喜多隊へ激しく攻撃します。
戦闘開始 1時間を経過しても両軍一進一退の攻防となります。
2時間程たっても激闘は続き、家康は石田隊から1kmくらい前まで陣を移し、東軍の士気を高めます。
その間、西軍島津・毛利・小早川は動かず。
三成は松尾山・南宮山へ向けて狼煙を上げて戦うように促しますが、動きに変化はありません。
小早川秀秋、突然西軍大谷の陣に向かって襲い掛かり東軍に寝返ります。
※動かない小早川に家康がおどしの鉄砲を放ったためとも言われています。
※大谷吉継は小早川秀秋の裏切りを予想し、松尾山の麓に脇坂・朽木・小川・赤座の隊を布陣させましたが、小早川の裏切りに乗じて、この4隊までもが東軍に寝返り、大谷隊を襲いました。
これにより一気に戦況は東軍優位に傾き、午後2時頃までに東軍勝利がほぼ決まりました。
多くの西軍は敗走し、三成も伊吹山中へ逃走します。
島津隊は東軍の前を横切り敵中を正面突破(島津の敵中突破)で伊勢方面へ逃走しました。
こうして、関ヶ原の戦いはわずか1日で終わりました。
なぜ島津、吉川、小早川が三成の催促にも動かなかったのかなど、次回は戦いの裏側を見ていきたいと思います。
<参考資料>『図説 関ヶ原の合戦』『決戦 関ヶ原』その他
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