歴史

伊能忠敬の測量人生

2017.10.04(水)

前回まで、伊能忠敬の日本地図が出来上がるまでの流れと、この地域での測量の足取りを見てきましたが、伊能忠敬は最初から日本地図を作る目的で測量を始めたわけではなかったようです。

なぜ、測量を始めたのか、しかも測量を始めたのは忠敬56歳の時だから驚きです。

忠敬は経度1度の正確な距離が知りたかった!

日本の暦の歴史

江戸時代はじめまで、日本では平安時代に唐(中国)から伝わった暦を800年以上使い続けていました。

しかし、長い間に暦と実際の天体の動きとに誤差が生じ改暦(暦を改める)のための天文学が盛んになってきます。

そんな中

1684年には、実際の天体観測に基づくはじめての日本独自の暦(渋川春海による)が取り入れられました。

その後もさらに正確さを増すために、将軍吉宗や忠敬の師匠、高橋至時らが研究をすすめていきました。

正確な暦を作成するには

① 地球の大きさを知ること

② そのためには、緯度1度の正確な距離を知ること

③ そのためには、できるだけ離れた南北2地点間の距離とその地点での天体観測が必要であること

と言う考えに至った高橋至時、忠敬は江戸と蝦夷(北海道)の距離を測り、天体観測を行いたいと思うようになります。

しかし、当時は国が藩や幕府領に分かれていて、幕府の許しがないと蝦夷地までの測量や天体観測など出来ません。

伊能忠敬の師匠、高橋至時は幕府の天文方であったため、至時が幕府に蝦夷地の地図を作製するためにという口実で願い出て、忠敬が自費で行うならという条件で、測量の許しが出ました。

ですから、地図作成というのは最初は口実であり、忠敬の測量は地球の大きさを知りたかったからなのでした。

第一次測量での地図が認められ、幕府から身分も与えられ徐々に忠敬の目的は地図作成へと動いていったのでしょうか。

測量は忠敬、第2の人生のライフワーク!

忠敬の幼少時代は省くとして、17才でわけあって伊能家へ婿養子に入ります。伊能家は大きな酒問屋でしたが、忠敬の商才で資産を20倍以上増やしたそうです。

又、村の役人となって、村の救済を行った記録も残っています。

51才で息子に家督を譲ると、隠居して佐原から江戸へ移り、念願だった天文学を学ぶため当時19才年下だった高橋至時に弟子入り、そして5年後から17年間にわたる測量人生がスタートしました。

忠敬の天文学への熱い思いと、自らの商才で築いた資金、詳細に書き記した測量日記からわかる人並みはずれた根気のすべてがそろって、日本で初めての実測地図が出来上がったのですね。

次回からは、中山道最大の行列、和宮についてです。

中山道は姫街道へ