歴史

織田信長の美濃攻め後半

2022.06.18(土)

信長の東美濃攻め

信長は義父、斎藤道三亡き後、西美濃を攻めるも一進一退(前回ミニコミ)

そんな中、犬山城の織田信清(信長の従兄弟)が、信長に反旗を翻し、美濃の斎藤龍興側についてしまいます。

1563年

信長は小牧山城を築き、清須城から居城を移します。

1564年

犬山城の家老二人が寝返った事により犬山城を落とすと、木曽川を越えていっきに東美濃へと侵攻していきました。

(1565年8月~)

鵜沼城・猿啄城 落城

信長が鵜沼城のすぐ近くの伊木山に砦を築いて鵜沼城を包囲したため、ほどなく鵜沼城開城。その後猿啄城は給水源を占領され、降参して退去した。

堂洞の戦い

斎藤側の加治田城が信長側に内応したため、斎藤軍は近くの堂洞城に布陣した。信長軍・加治田軍は堂洞を包囲して攻撃し、乱戦の末、堂洞城は落城した。

関・加治田の戦い

信長が堂洞の戦い後、引き揚げる途中、関城からと井ノ口からの龍興援軍3000以上に攻められ、信長軍は7~800ばかりだったため信長は撤退した。しかし龍興軍が加治田城を攻める様子を見て援軍を送った。加治田城で両軍激突の末、信長援軍の勝利。さらに関城へ攻め廃城に追い込んだ。

1566年8月

河野島の戦い

信長軍×龍興軍の戦い

(史料が乏しいが信長が撤退したようです。)

そして、1567年 稲葉城攻めにより、信長が美濃を平定します。(次回)

※河野島は場所が特定されていませんが、現在の各務ヶ原市川島辺りではないかと言われています。